空海(くうかい)は、「弘法大師(こうぼうだいし)」の名前でも知られる日本真言宗の開祖です。
俗名は佐伯真魚(さえき・の・まお、佐伯眞魚)です。
最澄(伝教大師)とともに、旧来のいわゆる奈良仏教から新しい平安仏教へと日本仏教が転換していく流れの双璧に位置し、中国から真言密教をもたらしました。
空海は書道家としても能筆で知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられます。
佐伯真魚の時代
讃岐国多度郡屏風浦の豪族・佐伯直田公(さえきあたいたぎみ)の子、真魚として、現在の香川県善通寺市に生まれました。母親は阿刀氏の出身です。
空海が誕生したとされる6月15日は、中国密教の大成者たる不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承に繋がっていきました。
15歳で、空海は、桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅(おじ)である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学び、18歳で京の大学寮に入りました。
大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書等を学んだと伝えられています。
仏道修行への道−空海の誕生
大学での勉学に飽き足らず、空海は、20歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったといいます。
24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうごしいき)』を著して俗世の教えが真実でないことを示しました(「聾瞽指帰」は、後に序文と巻末の十韻詩を改定、『三教指帰』(さんごうしいき)と改題されています)。
空海は、吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んびました。
『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられています。
さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もあります。
この時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を空海が授かったことはよく知られるところです。
『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修したこと、明星が来影するという形で行が成就したこと、が記されています。
求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていましたが、現在では大安寺の戒明ではないかと云われています。
戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者です。
空海の得度に関しては、延暦12年に20歳にして勤操を師とし槇尾山寺で出家した、という説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていましたが、現在では、延暦23年(804)、入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されています。
空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではありません。
弘法大師とその伝説
「弘法大師」とは空海の諡号ですが、「弘法大師」と「空海」とは必ずしもイコールではありません。
弘法大師に関する伝説は、北海道を除く全国に5000以上あるといわれ、歴史上の空海の足跡をはるかに越えています。
柳田国男は大子(オオゴ 神の長男を意味)伝説が大師伝説に転化したという説を提出していますが、他に中世、全国を勧進して廻った遊行僧である高野聖の存在を忘れるわけにはいきません。
ただ、やみくもに多くの事象と弘法大師が結び付けられたわけではなく、やはり空海の幅広い分野での活躍、そして空海への尊崇がその伝説形成の底辺にあることは疑い得ないことであります。
大師にまつわる伝説は寺院の建立や仏像などの彫刻、あるいは聖水、岩石、動植物等々多岐にわたりますが、おそらく多くの人にとってなじみ深いのは、弘法水に関するものだと思われます。
弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった弘法水の伝承をもつ場所は全国で千数百件にのぼるといわれています。

